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小文間城ノ内(2)~再訪。天神社の跡を確認し、「城ノ内」の地名の名残を発見。

20070504_omonmajyounouchi_small.jpg時間ができたので、小文間城ノ内を再訪した。過去に訪問済みではあるが、詰の丸があったとされる「天神社」の場所が今ひとつ特定できなかった。美浦村お散歩団のページに、天神社の場所が掲載されていたのを参考に行ってみることにした。

参考サイト:美浦村お散歩団


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稲城ノ台と古渡城

古渡城茨城県遺跡地図によると江戸川学園取手校の隣にある藪だらけの小山は、古渡城とされている。地理的には利根川縁に突出した見晴らしのよい高台となっており、当時の利根川の水運ににらみをきかせることができる要害だったのだろう。取手町郷土史資料集Ⅱによると、南側に簡単な土塁が残っており、茅山式土器が出土したらしい。
この古渡城と常総ふれあい道路をはさんだ向かい側に、「稲城ノ台」がある。取手市史に掲載の「稲城ノ内地形図」を見ると、常総ふれあい道路が出来る前は、古渡城と稲城ノ台は陸続きになっており、もしかしたら、古渡城は、稲城の郭の一部だったのかもしれない。

参考・引用文献:取手市史、茨城県遺跡地図、取手町郷土史資料集Ⅱ

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稲城山と馬場山

稲城山稲城ノ内に続き、城山と馬場山付近を訪ねてみた。遺構は残っていないが、城山付近は高台になっており、城跡らしい雰囲気を感じた。なお、馬場山は完全に隠滅している。昔は馬の飼育場・放牧地があったのだろう。

参考・引用文献:取手市史


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稲城ノ内

稲城ノ内取手市稲には、城館に関係する地名が残っている。城ノ台、城ノ内、城山、馬場山である。この辺りは舌状台地になっており、あちこちに谷戸が開けている。昔は、利根川の水が入り込み、船着場などがあったのかもしれない。なお、城主が誰か?については、常総戦蹟に、「稲村城主高井十郎」という記述があることから、高井氏である可能性が高い(ちなみに高井氏は高井城の城主でもある)が、はっきりとした資料は残っていない。日本城郭大系では、稲村城主・高井直将となっている。
今回行って来たのは、城ノ内付近。明らかな城の遺構はほとんど残っていないが、それを連想させるものがところどころに見られた。

参考(引用)文献:取手市史、常総戦蹟、日本城郭大系

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城山~本多城址(前期)

城山取手市井野台1丁目にある「城山観音」の場所に、本多作左衛門重次の城館があったという伝承がある。また「花蔵院」という寺がその城館であったとも云われている。取手市井野に蟄居が決まっての最初の居城だったが、火事で消失してしまい、井野城の内に移り住んだという。

場所は、取手市井野台1丁目9番地。常磐線沿線にある。城山と相向かって花輪城址(井野けやき台公園)がある。

参考文献:取手町郷土史資料集Ⅰ・Ⅱ、日本城郭大系、利根川図誌

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小文間城址付近の推定船着場

船着場取手町郷土史資料集Ⅱに掲載されている地図によると、小文間城址がある城の台から利根川へ降りる坂道を下ると、そこには「船着場」があったそうだ。地図は略図なため、今は場所を推定するしかない。小文間城が機能していた頃の船着場かどうかはわからない。

参考文献:取手町郷土史資料集Ⅱ

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高井城外郭部(1)~櫓台遺構

櫓台下高井にある高井城址。「取手市史」によると、外郭部にあたるエリアに、堀・残存土塁が部分的に認められるらしい。また、地図には櫓台遺構があると記述がある。

地図をたよりに櫓台遺構を訪ねてみた。


参考文献:取手市史

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大山城址

大山城址大山城址は岡台地と向いあう台地の先端部にある。城主は、「取手町郷土史資料集Ⅱ」によると平将門の臣・大炊豊後守。近郷きっての勇将と言われていたらしい。将門の乱勃発時、弟・丹後守と固めていたが、将門敗死の報を聞き城を棄てて、久寺家の庇護下に入ったとのこと。後、大炊豊後守は、久寺豊後と名乗る。久寺家大井氏宅には、将門に関する天慶3年の位牌と遺物頚天神があるそうだ。

大山城の縄張りは「市之代古墳群第3号調査報告書/巻末・取手町内遺跡一覧)」によると、二重の土塁と空堀にて後背の台地との連絡を絶っており、空堀の深さは2mあったとのこと。

大山城址の場所は、取手市寺田4355付近(旧地名:寺田字大山)

参考文献:取手町郷土史資料集Ⅱ、取手町郷土史写真集、市之代古墳群第3号調査報告書/巻末・取手町内遺跡一覧)、取手市史
参考サイト:美浦村お散歩団余湖くんのお城のページ



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高井城

高井城取手市唯一の本格的な城郭遺構が高井城である。小貝川の低湿地につきだしている舌状台地の上に築かれている。城主は「日本城郭大系」によると、長治年間に信太小次郎重国が信太郎(稲敷郡)から移ってきて築城し、相馬氏を名乗ったのが始まりといい、その後、天正年間(1573~92)に、相馬姓から高井姓に変えた。高井胤永が北条氏に味方をしていたため、豊臣秀吉に滅ぼされたそうだ。三男の胤正の子孫が横瀬伊勢守保広と名乗って江戸時代前まで居城していたが、徳川氏の世になると広瀬氏と改めて帰農し、廃城となったらしい。
利根川図誌には、一色宮内を討った高井十郎の記述があり、「高井は大鹿を討たせしかど、当の敵を]討ち取って勝鬨あげ、味方の面々へ一喜して、高井ノ館に帰りける」とあることから、高井城はこの頃から居城として機能していたのだろう。
高井城址は、郭・土塁・空堀などがたくさん残っており、城址ファンにとっては魅力的なものだ。(^_^)

高井城址の場所は取手市下高井1428番地付近。

※参考文献:取手市史、下高井城跡発掘調査報告、日本城郭大系、利根川図誌

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tag : 城館

小文間城


omonmajyou_small.jpg小文間城は、利根川を南に望む台地上に築かれていた城である。「取手市史」によると「城跡のある台地は城ノ台とよばれており、城跡北側に土塁と堀の一部が25mにわって残っている」とある。しかし、先月、行ってみたところ、土塁状遺構は確認できたが、堀跡は確認できなかった。
「取手市内遺跡発掘調査報告書」によると、堀跡は明治時代頃まで残存していたそうです。堀跡が見つからなかったけど、土塁を見つけたときの感動と驚きは素晴らしいものでした。(^_^)v

小文間城址の場所は、取手市小文間5485番地付近。

※参考文献:取手市史、取手市内遺跡発掘調査報告書Ⅰ


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tag : 中世城館

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Author:duckhouse
私は取手市に住む地元とアントラーズを愛するものです。歴史にお城も好きだよ。

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