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鮭地蔵

鮭地蔵利根川河川敷堤防の草むらの斜面にお地蔵さんがたっている。場所は、利根川鉄橋から100mぐらい下ったところだ。このお地蔵さんの正体は「鮭地蔵」。なぜ、「鮭」なのか?実は、江戸時代、利根川では鮭漁が行われていた。利根川図誌によると、鮭漁は、毎年7月下旬から10月下旬の間で行われており、小文間あたりで獲れる鮭が極上のものだったらしい。
この鮭地蔵の由来はわからないが、鮭の供養を目的として建てられたのかもしれない。
余談ではあるが、鮭地蔵がある付近には、竹村河岸があった。当時の有力商人である「竹村穀屋」が開設した河岸である。この河岸で鮭の水揚げがされていたのかもしれないね。

参考文献:取手市史、利根川図誌

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取手の一里塚

一里塚茨城県遺跡地図によると、JRの陸橋を渡ったところにある自転車駐輪場の辺り(取手市新町2丁目)には、江戸時代、「一里塚」があったそうだ。治助坂の登ったところがそうである。残念ながら、一里塚を示す碑はないが、近くを水戸街道(国道6号)が通っており、雰囲気を感じることができそうだ。

参考文献:茨城県遺跡地図

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平将門伝説~桔梗塚

桔梗塚取手市内には、平将門伝説が濃厚に残る史跡が数多く存在する。岡城址、大山城址、延命寺、三仏堂が代表的なものであるが、長年取手市に住んでいる私ですら、まだまだ訪ねていない史跡がたくさんあったりする。史跡の中では、特に、将門の愛姫「桔梗姫」ゆかりのものは、悲劇的な伝承が多い。
「桔梗塚」は、将門の桔梗姫が、藤原秀郷に討たれたという伝承の地である。道路脇にある目立たないほんの小さい塚であるが、訪ねたときは、花が供えられているだけでなく、雑草もなくきれいに整備されていたのには驚き感動した。地元の人に大切にされているのだろう。

場所は、関東鉄道常総線・稲戸井駅付近。国道294号線の道端にある。三仏堂へ入る道路の側にある。

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小堀地区(2)~小堀河岸

小堀河岸「河岸(場)」とは、江戸時代に栄えた河川舟運の拠点となる停舟地とその集落のことを言う。河岸場の機能としては、積荷の配舟・運搬の差配を行う。集落には、商人、船問屋、船頭、水主、船大工が主に居住している。江戸時代の取手には3つの河岸場があった。戸頭河岸、取手河岸、小堀河岸である。それぞれの河岸ごとに機能と目的が違っていておもしろい。
戸頭河岸。布施村(現柏市)、戸頭村、常陸、筑波、下妻、真壁、笠間筋の大名行列通行の中継地だった。
取手河岸。商人の活動場所・商業活動が目的の河岸場。取手の渡し(現大利根橋付近。大正6年に廃止)よりやや下流にあった。
小堀河岸。最寄の村々からの年貢米を積み出しては江戸へ廻送していた。艀下場として艀船を差配していた。

参考文献:取手市史

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台宿二本松遺跡~縄文時代の貝塚から平安・戦国時代中世城館までを含む複合遺跡

台宿二本松遺跡取手市井野団地のそばにあるスーパー「マスダ」のそばにある小山。今では、頂上部が掘削されて住宅やマンションが立ち並んでいるが、10年前には遺跡があった。「台宿二本松遺跡」である。取手市遺跡発掘報告書によると、旧石器時代、縄文時代の前・中期の貝塚が発掘された。また、奈良時代から平安時代にかけてと思われる住居跡も発掘されている。特に平安時代の住居は城館と思われる方形の跡地であったそうだ。
さらに、平成8年の遺跡調査では、戦国時代の堀または溝が発掘された。ということは、「土塁や主郭でもあったのか?縄張りは?」と大いに期待してしまうところだが、調査報告はここで終わっている。今は、遺跡の跡形もない。

参考文献:取手市遺跡発掘調査報告(1998年)

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大鹿城のそばにあった「鹿(しし)塚」について

鹿塚大鹿城の古写真集のコピーが手元にある。主郭から虎口、堀、土塁などの写真が掲載されており、昭和47年当時の「在りし日の大鹿城」をしのぶことができる。その写真の中に「鹿塚」というものがあり、なんのことだろう?と長く疑問に思っていた。最近、取手図書館にあった「取手町郷土史資料集Ⅱ」に鹿塚のことが書いてあったのを発見し、その正体がやっとわかった。

「鹿塚」とは、花輪城主・織部時平の名馬「白鹿」を葬った所であるらしい。場所は、蔵重一彦氏の「北相馬郡古城址図集」によると、大鹿城の南側にひろがっていた田んぼの中。今はすでに覆滅していて影も形もない。場所的には紳士服のアオキの建物の辺りだろう。取手は開発が活発なので、遺跡はなかなか残らない。

※写真は、昭和47年当時の鹿塚。

参考文献:大鹿城跡発掘調査報告書(1996年) 、取手町郷土史資料集Ⅱ

御墓山~本多作左衛門重次墳墓

墳墓江戸時代初期の人、徳川家康の家臣・本多作左衛門重次のお墓が取手市井野にある。御墓がある場所は井野の町を一望のもとに見下ろすことができる山の上にあり、この山は利根川図誌によると当時は御墓山と言われていたらしい。
本多重次は、北条氏滅亡後に家康が関東に国替えになった後に、過去の出来事の咎(一時、人質となった秀吉の母の扱い方が後年、秀吉の怒りを買った)のため上総国古井戸(千葉県君津市)に蟄居を命じられたが、蟄居先は取手市井野に変更になった。1596(慶長元)年7月16日68歳でこの地で死去した。
本多重次の逸話は、山岡荘八の「徳川家康」に詳しい。主君家康を諫言をもってやりこめる話はおもしろい。

本多作左衛門重次墳墓は茨城県指定史跡。

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旧取手宿本陣(染野家住宅)

取手本陣旧取手宿本陣とは、江戸時代の参勤交代の道中での宿泊や休息に利用された家のことです。この家の当主は、代々取手宿の名主を勤めた染野家。貞亨4年(1687年)に、水戸徳川家から「本陣」に指定されたと伝わっている。この本陣は、水戸徳川家歴代藩主だけでなく、水戸藩士や他の大名にも利用されたらしい。
旧取手本陣は、茨城県指定有形文化財・取手市指定史跡に指定されています。
毎週金曜日・土曜日・日曜日に無料公開。

参考文献:取手市教育委員会発行「旧取手宿本陣染野家住宅」

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首欠け地蔵と一色宮内の墓~小文間城主・一色宮内少輔政良終焉の地

首欠け地蔵雁金山の戦いに敗れた一色宮内少輔政良は、高井・荒木三河守勢に捕らえられて処刑された地が小文間にあります。言い伝えでは、小文間小学校正門の側にある「首欠け地蔵」の場所がそうであるようです。
また、首欠け地蔵の伝説には、こういうものがあります。
「昔、首があった頃の地蔵が毎夜化けてその地の人々を驚かすことがあり、困った名主が、地蔵の首を切り落としたところ、血が噴出した。驚いた名主が供養を行った」

小文間城址の側にある「ぽっくり榎大師」の墓地には一色宮内の墓(?)があります。

好戦的な一色宮内ってどういう人だったんでしょうね。小豪族に生まれたため、ほとんど記録が残っていません。織田信長のような苛烈な性格の持ち主だったのかもしれません。。。一色宮内に興味があります。(^_^)

首欠け地蔵の場所は、取手市小文間5341番地付近。

参考文献:取手市史。
参考サイト:取手の坂東太郎大師堂15番と66番

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「雁金山の戦い」古戦場~一色氏 vs 高井・荒木連合軍

城根バス亭小文間台地の入口付近に「城根」という地名が残っている。この地名の由来は、この先1kmほどにある小文間城址が関係しているのだろう。
16世紀中葉、この城根・相野谷付近で3人の豪族たちの戦があったそうだ。小文間城主一色宮内少輔政良、高井城主高井十郎直徳、柴崎城主荒木三河守である。大鹿城主大鹿太郎左衛門を討った一色宮内が、その報を聞いて駆けつけた高井十郎と戦っている最中、荒木三河守に小文間城を落とされる。驚いた一色宮内が小文間城に軍勢を返しこの城根付近に来たところ、待ち構える荒木勢と追ってきた高井勢に挟み撃ちに合い、敗亡した。「雁金山の戦い」とは、この付近に「雁金山」という小山があったことによる。その小山は今は掘削されている。

古戦場の場所は、取手市長兵衛新田16・城根団地付近。近くにバス停「城根」がある。

参考文献:取手市史、取手町郷土史資料集Ⅱ、東国戦記実録

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Author:duckhouse
私は取手市に住む地元とアントラーズを愛するものです。歴史にお城も好きだよ。

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