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【熊本城(5)】宇土櫓

宇土櫓本丸の西隅にあるこの「宇土櫓」は、解体修理をされたとはいえ、築城当時のままに近いと言われています。国の重要文化財に指定されている櫓です。熊本城の公式ページによると、宇土櫓の名前の由来は宇土の小西行長が関ヶ原で滅んだ後、小西の家臣の一部を清正が召し抱えて宇土小路として現在に名前を残します京町に住まわせ、櫓をこの一団に管理させたことから、こう呼ばれたのではないかと言われているらしい。

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【熊本城(4)】数奇屋丸から天守閣へ

天守閣東竹の丸から飯田丸に戻って上ると、天守閣がある主郭部に行くことができる。主郭部の入口には「数奇屋丸」があり、そこには、「数奇屋丸二階御広間」という建物がある。建物の手前には、地図石と言われるモザイク上の組み石があったりする。伝説では、「江戸城の縄張り図」となっているそうだが、実際は茶室の入口であるということである。地図石をじっと観察してみたが、縄張り図には見えなかった。(^_^;

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【熊本城(3)】東竹の丸~平櫓群

平櫓東竹の丸には、西南戦争のときの戦火に焼け残った櫓群が残っています。昔は武器庫として使われていたらしい。現存している櫓は、田子櫓、七間櫓、十四間櫓、四間櫓、源乃進櫓、東十八間櫓、北十八間櫓、五間櫓、不開門、平櫓とたくさんあります。いずれも、当時の素材で作られているので、それなりにおもむきがあります。


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【熊本城(2)】巨大石垣が作る「武者隠し」から飯田丸へ

武者隠し竹の丸の北に天守閣へ上る通路が開けています。虎口に当たるのかしら。。。
この通路は、迷路のようにジグザグになっています。10mぐらいを進むごとに巨大な石垣が直進を阻み、通路から死角になるところには、「武者隠し」と思われる防御空間があります。この通路を苦労して進んでいくと、天守閣の側にある飯田丸に入ります。

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【熊本城(1)】櫨方門から竹の丸

熊本城112/23、24と熊本城に行って来ました。近世城郭としての熊本城は、巨大な堀に石垣に近代的枡形空間と見所満載で、城郭というよりは「巨大要塞」を思わせるほどのものがありました。
「日本城郭大系」おすすめの「行幸橋を渡って竹の丸から入る」コースは、熊本城の巨大さを堪能するのには最も適切なものだったと思います。初めて熊本城へ行く方にはおすすめです!
竹の丸から天守閣に向かう通路の途中に、まるで「通せんぼ」するように立ちはだかる巨大石垣の配置と通路からの死角にある枡形空間は、防御を考え抜いたものであることが、よくわかりました。


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熊本城探検途中報告

熊本城23、24日と熊本に行って来ました。本目的は天皇杯・鹿島アントラーズの試合の応援なんですが。。。大きな副目的として、熊本城およびその周辺遺構の探検がありました。(^_^)日本城郭大系で周るところを事前に調査。ざっとこんな所を周ってきました。

●本丸の部
竹の丸→東竹の丸・小櫓群→飯田丸・飯田丸五階櫓→数奇屋丸・二階御広間→宇土櫓→天守閣→加藤神社
●二の丸の部
南大手門→奉行丸→二の丸広場→二の丸御門
●三の丸の部
百聞石間→三の丸史料公園→細川刑部邸→家老米田屋敷→監物台→千葉城址

写真は後ほど整理してアップしますので。(^_^;
それにしても、これだけ周るのに4時間かかりました。熊本城は広大な城であることがよくわかりました。おかげで、足が痛いです(苦笑)。

大鹿村・添弁天組集落跡

大鹿村弁才天取手市新町4丁目の河川敷土手のそばに、「ポケットパーク」という小さい公園がある。あまりにも小さい公園のため最近まで気づかなかったが、公園の一角になにやら碑があることを発見!その碑にある文面に目が釘付けとなった。以下、そのまま掲載する。
「このポケットパークの辺りは、その昔大鹿村の添弁天組という集落があったところで、今の添桶管のあたりが小高い山になっていました。そこには、この集落の人々の氏神である弁財天が祭られており、その山が弁天山といわれていたことにちなんだものです」

ポケットパークの場所は、取手市新町4丁目10番地付近。


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高井城

高井城取手市唯一の本格的な城郭遺構が高井城である。小貝川の低湿地につきだしている舌状台地の上に築かれている。城主は「日本城郭大系」によると、長治年間に信太小次郎重国が信太郎(稲敷郡)から移ってきて築城し、相馬氏を名乗ったのが始まりといい、その後、天正年間(1573~92)に、相馬姓から高井姓に変えた。高井胤永が北条氏に味方をしていたため、豊臣秀吉に滅ぼされたそうだ。三男の胤正の子孫が横瀬伊勢守保広と名乗って江戸時代前まで居城していたが、徳川氏の世になると広瀬氏と改めて帰農し、廃城となったらしい。
利根川図誌には、一色宮内を討った高井十郎の記述があり、「高井は大鹿を討たせしかど、当の敵を]討ち取って勝鬨あげ、味方の面々へ一喜して、高井ノ館に帰りける」とあることから、高井城はこの頃から居城として機能していたのだろう。
高井城址は、郭・土塁・空堀などがたくさん残っており、城址ファンにとっては魅力的なものだ。(^_^)

高井城址の場所は取手市下高井1428番地付近。

※参考文献:取手市史、下高井城跡発掘調査報告、日本城郭大系、利根川図誌

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tag : 城館

小文間城


omonmajyou_small.jpg小文間城は、利根川を南に望む台地上に築かれていた城である。「取手市史」によると「城跡のある台地は城ノ台とよばれており、城跡北側に土塁と堀の一部が25mにわって残っている」とある。しかし、先月、行ってみたところ、土塁状遺構は確認できたが、堀跡は確認できなかった。
「取手市内遺跡発掘調査報告書」によると、堀跡は明治時代頃まで残存していたそうです。堀跡が見つからなかったけど、土塁を見つけたときの感動と驚きは素晴らしいものでした。(^_^)v

小文間城址の場所は、取手市小文間5485番地付近。

※参考文献:取手市史、取手市内遺跡発掘調査報告書Ⅰ


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tag : 中世城館

小文間城ノ内

小文間城ノ内小文間の天神前バス亭付近が、天正年間に一色氏の城館があったとされる場所である。赤松宗旦氏(江戸時代の人)著の「利根川図誌」によると、「一色城址・小文間の戸谷に近き処に在り、詰の丸と覚しき処に天神社あり、下の谷を城ノ内といふ」とあり、さらに、一色氏の滅亡のくだりについて書かれている。
一色氏は、かなり好戦的な大名だったようであり、当時の城主・一色宮内が、大鹿城(今の取手競輪場付近)城主の大鹿左衛門が病中であるのを知り、攻め滅ぼした事件があった。しかし、このことを知った大鹿左衛門の婿の高井十郎(高井城城主)が復讐戦を挑み、滅ぼされ、その後の小文間城は高井氏のものとなった。
小文間城ノ内は、取手市小文間4558番地にある。

※参考文献:取手市史、利根川図誌

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tag : 中世城館

大鹿城

大鹿城大鹿城は現在は消滅してしまっている。取手競輪場のある台地・南側の尖端にあったらしい。取手市史によると、昭和45年頃まで単郭の城跡があったようだ。大鹿城の縄張り図と写真が、大鹿城跡発掘調査報告書の残されている。当時の大鹿城は、100mx40mの単郭のものであり、本丸は二段になっており、中段には土塁と空掘があり、頂上本丸の周囲は土塁で囲まれていたそうだ。
また、倉重一彦氏の「北相馬郡古城址図集」によると、競輪場コース・西側の広場が二の丸・馬場があり、駐車場付近に北の口・追手門と妙見社があったようだ。北の口付近に、残存土塁がある記述もある。昭和47年の作図なので、今も、残っているかわからない。
大鹿城の城主・大鹿左衛門は小文間の一色宮内に滅ぼされた。取手市内には、大鹿とついた地名がいくつか見られる。

大鹿城址は、取手競輪場付近。遺構は残っていない。八重洲ニュータウン造成前、取手競輪場拡張前は、競輪場南前に堀跡がまだ残っていたそうだ。

参考文献:取手市史、利根川図誌、大鹿城跡発掘調査報告書(1996年)

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tag : 中世城館

野々井本能寺城跡


野々井本能寺城この城については「取手市史」が詳しい。野々井の集落にある白山神社には本能寺城という城跡があったという言い伝えが残っている。神社の境内は南北70m、東西55mの五角形の平面形をなしており、境内は周辺より2~3mほど高くなっており、境内を囲むように高さ0.5m~1.7mの土塁がめぐっている(取手市史)。
白山神社は、養老3年(719年)に加賀国から長束三兄弟が歓請して創建されたというとても古い由来のあるもので、祭神はイザナギノミコトである。

場所は、取手市野々井1727番地。常総ふれあい道路の野々井中学をすぎた付近に、白山神社入口を示した看板がある。それが目印。

※参考文献:取手市史

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tag : 中世城館

花輪城址

花輪城取手市井野にある「さくら公園」が花輪城の跡らしいという伝承がある。日本城郭大系によると城主は、織部時平。
取手図書館資料室でたまたま見つけた蔵重一彦氏著「伝説の花輪城再発見・第2版」。花輪城は、大鹿城落城(永禄4年)以前に、当時の城主・綾部民部介貞次が取手を退散して、廃城になったらしい。

花輪城の場所は、取手市井野台1丁目22番地。さくら公園。

※参考文献:蔵重一彦氏著「伝説の花輪城再発見・第2版」

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tag : 中世城館

岡城址

岡城
現・岡神社に城があったという伝承がある。城主は不明。平将門の桔梗姫の御殿があったという伝説もある。岡神社がある場所は、舌状台地である岡台地にある。藤代町史によると、岡台地は「昔はうっそうとした樹林の台地になっていて、中へ入ると迷って戻れなくなる岡不知(岡知らず)と呼ばれていた」そうである。城主が不明な岡城であるが、近くには高井城があることから、もしかしたら、高井城の枝城だったかもしれない。

岡城の場所は、取手市岡1176番地。宗仁会第一病院前の十字路を西に行く細い道に曲がる。こんもりとした森が岡城跡。

※参考文献:藤代町史

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tag : 中世城館

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Author:duckhouse
私は取手市に住む地元とアントラーズを愛するものです。歴史にお城も好きだよ。

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