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大鹿城のそばにあった「鹿(しし)塚」について

鹿塚大鹿城の古写真集のコピーが手元にある。主郭から虎口、堀、土塁などの写真が掲載されており、昭和47年当時の「在りし日の大鹿城」をしのぶことができる。その写真の中に「鹿塚」というものがあり、なんのことだろう?と長く疑問に思っていた。最近、取手図書館にあった「取手町郷土史資料集Ⅱ」に鹿塚のことが書いてあったのを発見し、その正体がやっとわかった。

「鹿塚」とは、花輪城主・織部時平の名馬「白鹿」を葬った所であるらしい。場所は、蔵重一彦氏の「北相馬郡古城址図集」によると、大鹿城の南側にひろがっていた田んぼの中。今はすでに覆滅していて影も形もない。場所的には紳士服のアオキの建物の辺りだろう。取手は開発が活発なので、遺跡はなかなか残らない。

※写真は、昭和47年当時の鹿塚。

参考文献:大鹿城跡発掘調査報告書(1996年) 、取手町郷土史資料集Ⅱ
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水戸城

水戸城水戸城は徳川御三家が水戸徳川家の城である。江戸時代に「御三階櫓」と呼ばれた天守閣があったのだが、太平洋戦争時の空襲で焼失。今残る遺構といえば、三の丸に残る巨大な空堀に土塁と二の丸の大手橋付近にある土塁と枡形が主なものだが、「三の丸歴史ロード」やその他の歴史ロードを散策すると、意外なものが残っていたりするのを発見できて楽しい。

参考文献:日本城郭大系、図説茨城の城郭

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城山~本多城址(前期)

城山取手市井野台1丁目にある「城山観音」の場所に、本多作左衛門重次の城館があったという伝承がある。また「花蔵院」という寺がその城館であったとも云われている。取手市井野に蟄居が決まっての最初の居城だったが、火事で消失してしまい、井野城の内に移り住んだという。

場所は、取手市井野台1丁目9番地。常磐線沿線にある。城山と相向かって花輪城址(井野けやき台公園)がある。

参考文献:取手町郷土史資料集Ⅰ・Ⅱ、日本城郭大系、利根川図誌

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御墓山~本多作左衛門重次墳墓

墳墓江戸時代初期の人、徳川家康の家臣・本多作左衛門重次のお墓が取手市井野にある。御墓がある場所は井野の町を一望のもとに見下ろすことができる山の上にあり、この山は利根川図誌によると当時は御墓山と言われていたらしい。
本多重次は、北条氏滅亡後に家康が関東に国替えになった後に、過去の出来事の咎(一時、人質となった秀吉の母の扱い方が後年、秀吉の怒りを買った)のため上総国古井戸(千葉県君津市)に蟄居を命じられたが、蟄居先は取手市井野に変更になった。1596(慶長元)年7月16日68歳でこの地で死去した。
本多重次の逸話は、山岡荘八の「徳川家康」に詳しい。主君家康を諫言をもってやりこめる話はおもしろい。

本多作左衛門重次墳墓は茨城県指定史跡。

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旧取手宿本陣(染野家住宅)

取手本陣旧取手宿本陣とは、江戸時代の参勤交代の道中での宿泊や休息に利用された家のことです。この家の当主は、代々取手宿の名主を勤めた染野家。貞亨4年(1687年)に、水戸徳川家から「本陣」に指定されたと伝わっている。この本陣は、水戸徳川家歴代藩主だけでなく、水戸藩士や他の大名にも利用されたらしい。
旧取手本陣は、茨城県指定有形文化財・取手市指定史跡に指定されています。
毎週金曜日・土曜日・日曜日に無料公開。

参考文献:取手市教育委員会発行「旧取手宿本陣染野家住宅」

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小文間・利根川堤防付近にある謎の古墳

謎の古墳小文間城址付近にある船着場を探していたら、たまたま見つけた古墳らしきもの。小文間の利根川堤防沿いに古墳(しかも巨大!)があったなんて知らなかったのでびっくり。でも。。。これはどうみても古墳だよなー(^_^; 全長50m以上の前方後円墳だ。周りは太い針金で囲われ、自治体による「立入禁止」の札が立っている。
取手市史にも記述がないし、取手市の遺跡発掘調査報告にも出ていなかった。発掘待ちなのだろう。たぶん。



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小文間城址付近の推定船着場

船着場取手町郷土史資料集Ⅱに掲載されている地図によると、小文間城址がある城の台から利根川へ降りる坂道を下ると、そこには「船着場」があったそうだ。地図は略図なため、今は場所を推定するしかない。小文間城が機能していた頃の船着場かどうかはわからない。

参考文献:取手町郷土史資料集Ⅱ

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【守谷市】今城城址(高野館)

今城守谷市けやき台にある「うららか公園」は今城城址であるそうだ。城址にある説明板には城の名前と築城の由来が書いてある。それによると。。。
「今城」とは、「今造られた城」という意味であり、地元では昔から「いまんじょ」と呼ばれているらしい。
築城は14世紀の南北朝時代の頃。守谷の領主相馬忠重が南朝の味方をして城を築いて北畠顕国を迎えたという記録がありそのときの城がこれではないかと言われているそうだ。北畠顕国はその後北朝軍に攻められ敗退した。
また、城の構造については、南朝の英勇北畠親房が最後に拠った大宝城や関城と構造が良く類似しており、自然を利用した簡単な土塁を造った程度の城と考えられているらしい。生活のための城でなく、戦時用の城砦である。

今城城址は、守谷市けやき台3丁目付近。

参考文献:守谷市史、常総戦国史
参考サイト:美浦村お散歩団余湖くんのお城のページ


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首欠け地蔵と一色宮内の墓~小文間城主・一色宮内少輔政良終焉の地

首欠け地蔵雁金山の戦いに敗れた一色宮内少輔政良は、高井・荒木三河守勢に捕らえられて処刑された地が小文間にあります。言い伝えでは、小文間小学校正門の側にある「首欠け地蔵」の場所がそうであるようです。
また、首欠け地蔵の伝説には、こういうものがあります。
「昔、首があった頃の地蔵が毎夜化けてその地の人々を驚かすことがあり、困った名主が、地蔵の首を切り落としたところ、血が噴出した。驚いた名主が供養を行った」

小文間城址の側にある「ぽっくり榎大師」の墓地には一色宮内の墓(?)があります。

好戦的な一色宮内ってどういう人だったんでしょうね。小豪族に生まれたため、ほとんど記録が残っていません。織田信長のような苛烈な性格の持ち主だったのかもしれません。。。一色宮内に興味があります。(^_^)

首欠け地蔵の場所は、取手市小文間5341番地付近。

参考文献:取手市史。
参考サイト:取手の坂東太郎大師堂15番と66番

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東谷寺~小文間城主・一色宮内少輔政義ゆかりの寺

東谷寺小文間城址の近くにある東谷寺は、一色宮内少輔政義が築城の際に「鬼門除けの寺」「祈願寺」として建立されたものです。境内にある観音堂には、一色氏の守護神である「如意輪観世音菩薩」が安置されています。
一色氏が雁金山の戦いで敗亡後、一時廃れましたが
、住職・祐賢が18世紀に立て直して今日に至っています。御本尊は、大日如来。

場所は、取手市小文間5468番地付近。

参考文献:取手市史



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高井城外郭部(2)~妙見社

妙見社高井城址の隣に妙見社(妙見八幡宮)がある。「妙見」とは、北斗七星を神格化した延命のインドの神様のことであるらしい。インドから中国を経て、8世紀に日本に渡来した。平将門が厚く信仰していたという話もある。
妙見社は、千葉氏・相馬氏が城の守り神として信仰していた。守谷城址には妙見社を祭った「妙見曲輪」というものがある。この高井城主の高井氏は相馬氏の庶流であり、当然のごとく、妙見社を祭ったのだろう。

参考文献:取手市史、藤代町史、取手市史・石造遺物資料

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高井城外郭部(1)~櫓台遺構

櫓台下高井にある高井城址。「取手市史」によると、外郭部にあたるエリアに、堀・残存土塁が部分的に認められるらしい。また、地図には櫓台遺構があると記述がある。

地図をたよりに櫓台遺構を訪ねてみた。


参考文献:取手市史

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「雁金山の戦い」古戦場~一色氏 vs 高井・荒木連合軍

城根バス亭小文間台地の入口付近に「城根」という地名が残っている。この地名の由来は、この先1kmほどにある小文間城址が関係しているのだろう。
16世紀中葉、この城根・相野谷付近で3人の豪族たちの戦があったそうだ。小文間城主一色宮内少輔政良、高井城主高井十郎直徳、柴崎城主荒木三河守である。大鹿城主大鹿太郎左衛門を討った一色宮内が、その報を聞いて駆けつけた高井十郎と戦っている最中、荒木三河守に小文間城を落とされる。驚いた一色宮内が小文間城に軍勢を返しこの城根付近に来たところ、待ち構える荒木勢と追ってきた高井勢に挟み撃ちに合い、敗亡した。「雁金山の戦い」とは、この付近に「雁金山」という小山があったことによる。その小山は今は掘削されている。

古戦場の場所は、取手市長兵衛新田16・城根団地付近。近くにバス停「城根」がある。

参考文献:取手市史、取手町郷土史資料集Ⅱ、東国戦記実録

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大日山古墳

大日山古墳大日山古墳は、岡城址の主郭にある。方形状の古墳。底形13m×17m、上形5m×5m、高さ3.3mとなっており、古墳の上には岡神社が建っている。古墳が作られた時期と被葬者は不明。中・近世に盛んになった大日信仰のおり、それにちなんだ板碑や仏、祠が古墳周辺に並べられた。「大日山」の名前は、それからきている。

場所は、取手市岡字台畑。

参考文献:藤代町史
参考サイト:取手市ホームページ

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仏島山古墳

仏島山古墳岡城址(岡神社)がある岡台地のふもとに仏島山古墳がある。古墳の形は円墳。6世紀頃の古墳であると推定されている。被葬者は不明。以下、説明板の文章をそのまま掲載する。
「美しい円墳で墳丘も高かったといわれるが、過去二回にわたって古墳の土砂を採取したので、その形状は明確には判明しない。しかしながら、周囲の状況から判断して、これは径約三十メートルの円墳と推定される。また、遺物の出土状況から判断してこの墳丘は埴輪円筒をめぐらし、その上を美しい埴輪で飾った整然たる古墳であったと想像される。本古墳の築造年代は六世紀(今より約1400年前)のものである事が判明した。
なお、明治28年学校敷地造成のため、土砂を採取した際に、石櫛・骨片・刀剣・曲玉・鉄鏃・埴輪・埴輪円筒等出土したが、この多くは現在の国立博物館に納入された。
また、昭和八年岡堰改良工事のため土砂を採取したとき、埴輪四、円筒埴輪七を出土したが、それ等は国立博物館に納入してある。
本古墳に仏島山の名称がつけられたのは、古墳の周囲には堀をめぐらし一大島状をなしていたが、その後、中世になって墳丘上に仏像や石像が建立されてから仏島の名が出たものといわれる。」


仏島山古墳は取手市岡1176付近にある。

参考サイト:取手市ホームページ

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大山城址

大山城址大山城址は岡台地と向いあう台地の先端部にある。城主は、「取手町郷土史資料集Ⅱ」によると平将門の臣・大炊豊後守。近郷きっての勇将と言われていたらしい。将門の乱勃発時、弟・丹後守と固めていたが、将門敗死の報を聞き城を棄てて、久寺家の庇護下に入ったとのこと。後、大炊豊後守は、久寺豊後と名乗る。久寺家大井氏宅には、将門に関する天慶3年の位牌と遺物頚天神があるそうだ。

大山城の縄張りは「市之代古墳群第3号調査報告書/巻末・取手町内遺跡一覧)」によると、二重の土塁と空堀にて後背の台地との連絡を絶っており、空堀の深さは2mあったとのこと。

大山城址の場所は、取手市寺田4355付近(旧地名:寺田字大山)

参考文献:取手町郷土史資料集Ⅱ、取手町郷土史写真集、市之代古墳群第3号調査報告書/巻末・取手町内遺跡一覧)、取手市史
参考サイト:美浦村お散歩団余湖くんのお城のページ



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市之代古墳群

市之代古墳取手市最北端にある市之代地区に古墳群がある。小貝川にかかる稲豊橋の周辺に15個の古墳が点在しているのだ。これらの古墳が作られた時期は、「市之代古墳群第3号墳調査報告書」によると、5世紀後半から6世紀中葉あたりであるらしい。
「調査報告書」にある3号墳は前方後円墳である。ここからは、埴輪円筒棺が出土した。副葬品には、土師器、人物形埴輪、馬形埴輪があったとのこと。
なお、被葬者は、埋葬状態が粘土床か溝を掘って埋葬した程度のものであることから、中産階級の人物であるらしい。

参考文献:市之代古墳群第3号墳調査報告書


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【熊本】千葉城址~出田秀信築城の中世城館

千葉城址熊本城の外郭部にある城址である。日本城郭大系によると、応仁・文明(1467-87年)の頃に出田秀信が築城したらしい。その後、鹿子木寂心が居城したが、明応年間(1492-1501)に寂心が古城(熊本城二の丸付近に城址がある)へ移転するに及んで廃城となった。
城址があるところは、熊本城がある茶臼山の北東部となっているが、今では、道路に分断されており、熊本城と地続きにはなっていない。主郭部にはNHKの建物が立っている。

参考文献:日本城郭大系

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【熊本城(9)】百間石間を通り、本丸石垣の裾へ(熊本城探検報告おしまい)

百間石間旧細川刑部邸を後にし、三の丸を抜けて熊本城の外郭を周る。最後の目的地は旧熊本城と言われる「千葉城址」。三の丸を抜け二の丸北縁に入ると、長大な石垣が目に入る。延々と続く石垣は「百間石間」と言われている。その長さは約200m。熊本城探検最後の見せ場だ。

参考文献:日本城郭大系

#ひとりごと。
熊本城の遺構を全て周るのには1日は必要でしょう。私は4時間かけましたが、三の丸までしか行けなかった。(^_^;


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【熊本城(8)】三の丸から細川刑部邸へ

二の丸御門跡二の丸北にある「催し物広場(家老米田監物屋敷跡)」の北に二の丸御門跡がある。ここにも見事な枡形が見られる。二の丸御門跡を抜けると、今は駐車場になっている三の丸に出ることができる。三の丸の西には、旧細川刑部邸がある。

参考文献:日本城郭大系、熊本城総合事務所編「旧細川刑部邸」


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【熊本城(7)】二の丸

二の丸いよいよ熊本城の外郭へ行きます。櫨方郭跡の加藤神社から本丸・頬当門まで引き返して、西出丸の西大手門をくぐって、二の丸へと進みます。日本城郭大系によると二の丸には、有吉・松井氏以下の重臣屋敷に藩校「時習館」があり、二の丸北(現・催し広場)には家老・米田監物の屋敷があったとされている。

参考文献:日本城郭大系



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【熊本城(6)】西出丸

西出丸本丸の頬当門を出ると「西出丸」に出ます。北の郭は「櫨方郭」と言われ、昔は櫨実専売の役所があったところでありる。今は加藤神社になっている。櫨方郭の向かいの郭には笹園と呼ばれる倉庫跡があり、その南には奉行所跡の「奉行丸」がある。

参考文献:日本城郭大系

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duckhouse

Author:duckhouse
私は取手市に住む地元とアントラーズを愛するものです。歴史にお城も好きだよ。

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