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取手の坂道(2)・小文間編~「宗四郎坂」

宗四郎坂小文間の有名な坂である「宗四郎坂」。この人の名前がついている坂の由来には興味深い話がある。宗四郎とは江戸時代初期から明治時代にかけて小文間で代々名主をつとめた「斉藤宗四郎」のことである(斉藤家の当主は代々、「宗四郎」という名乗りを世襲した)。斉藤家は、小文間新田の開発と岡堰設置の功があった名家とされ、永代名主として明治まで続いた。
この斉藤家の小文間入りには驚くべき伝説がある。斉藤家の祖は、美濃ノ国を治めていた斉藤道三であるという。斉藤家は龍興の代で敗亡し、離散後、徳川秀忠の時代に、龍興の子の秀政が小文間の地に流れ着き帰農したのが始まりであるという。

小文間の坂にはこのような由緒・由来があっておもしろい。

参考文献:取手市史、取手町郷土史資料集Ⅱ

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稲城ノ台と古渡城

古渡城茨城県遺跡地図によると江戸川学園取手校の隣にある藪だらけの小山は、古渡城とされている。地理的には利根川縁に突出した見晴らしのよい高台となっており、当時の利根川の水運ににらみをきかせることができる要害だったのだろう。取手町郷土史資料集Ⅱによると、南側に簡単な土塁が残っており、茅山式土器が出土したらしい。
この古渡城と常総ふれあい道路をはさんだ向かい側に、「稲城ノ台」がある。取手市史に掲載の「稲城ノ内地形図」を見ると、常総ふれあい道路が出来る前は、古渡城と稲城ノ台は陸続きになっており、もしかしたら、古渡城は、稲城の郭の一部だったのかもしれない。

参考・引用文献:取手市史、茨城県遺跡地図、取手町郷土史資料集Ⅱ

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稲城山と馬場山

稲城山稲城ノ内に続き、城山と馬場山付近を訪ねてみた。遺構は残っていないが、城山付近は高台になっており、城跡らしい雰囲気を感じた。なお、馬場山は完全に隠滅している。昔は馬の飼育場・放牧地があったのだろう。

参考・引用文献:取手市史


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取手の坂道(1)・小文間編~「馬坂」

馬坂取手市には坂道が多い。自転車で取手市内を散策すると、この坂道の多さに閉口してしまう。去年の話だが、自転車で坂道を下っていたら、「ブレーキが突然壊れる」というとても怖い目にあったことがある。なんとか危地を脱して(笑)、自転車屋さんへブレーキを修理しに行ったわけだが、そこの店主いわく、「取手市内は坂道が多いので自転車は傷みが早い」と言われたものだ。坂道が多い取手市では、さぞかし、自転車屋さんは繁盛してることだろう(笑)。
さて、市内のたいていの「坂道」には名前がついており、歴史的な由来があったり、名勝だったりするのでおもしろい。そんなわけで、取手市内の代表的な「坂道」をいくつか紹介したい。まずは、小文間の「馬坂」。取手市中心部から小文間台地に登って行く坂道がそうである。名前の由来は不明ではあるが、坂道が急で「馬」の名前がつくことから、江戸時代の頃のこの坂道は、「馬にとって辛かった」ってのが名前に関係しているかもしれない。。。と勝手に想像してしまった。(^_^;
なお、馬坂には日本百景の碑がある。

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青柳本願寺~本多作左衛門重次の菩提寺

本願寺の碑取手市青柳にある本願寺は、京都東山の知恩院直末寺であり、取手市ゆかりの本多作左衛門重次の菩提寺でもある。本多重次が取手の地に住居を定めたときに、この寺を菩提所として供養料を納めた話が伝わっている。寺には、重次の甲冑・金扇・旗を寺宝として保存されている。また、敷地内には、重次の有名な手紙の一文「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」の碑がある。


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渋谷城と鎌倉古道

渋谷城東京都渋谷区渋谷のオフィス街の一画にあるお寺「金王八幡社」。このお寺の周辺は昔、渋谷氏の城館「渋谷城」があったと言われている。渋谷城は、日本城郭大系によると、源義家が渋谷氏の祖・河崎其家に渋谷を含める一帯の土地を与えたのが始まりであるようだ。その後、河崎氏の子孫に金王丸という者が出て、金王八幡社の名前の由来になるような武勇伝・伝説を残したが、渋谷氏そのものの記録が全く残っていない。渋谷城は、大永4年(1524年)に起きた北条氏と上杉氏との合戦の中で焼き払われたらしい。渋谷氏はそれとともに、城を棄てたため廃城となった。現存する金王八幡社は、場内にあった氏神・守神のようなものであったのだろう。なお、城の遺構は残っていることは残っているんですが。。。

場所は、渋谷区渋谷3-5付近。渋谷クロスタワーのそば。

参考文献:日本城郭大系

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平将門伝説~桔梗塚

桔梗塚取手市内には、平将門伝説が濃厚に残る史跡が数多く存在する。岡城址、大山城址、延命寺、三仏堂が代表的なものであるが、長年取手市に住んでいる私ですら、まだまだ訪ねていない史跡がたくさんあったりする。史跡の中では、特に、将門の愛姫「桔梗姫」ゆかりのものは、悲劇的な伝承が多い。
「桔梗塚」は、将門の桔梗姫が、藤原秀郷に討たれたという伝承の地である。道路脇にある目立たないほんの小さい塚であるが、訪ねたときは、花が供えられているだけでなく、雑草もなくきれいに整備されていたのには驚き感動した。地元の人に大切にされているのだろう。

場所は、関東鉄道常総線・稲戸井駅付近。国道294号線の道端にある。三仏堂へ入る道路の側にある。

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稲城ノ内

稲城ノ内取手市稲には、城館に関係する地名が残っている。城ノ台、城ノ内、城山、馬場山である。この辺りは舌状台地になっており、あちこちに谷戸が開けている。昔は、利根川の水が入り込み、船着場などがあったのかもしれない。なお、城主が誰か?については、常総戦蹟に、「稲村城主高井十郎」という記述があることから、高井氏である可能性が高い(ちなみに高井氏は高井城の城主でもある)が、はっきりとした資料は残っていない。日本城郭大系では、稲村城主・高井直将となっている。
今回行って来たのは、城ノ内付近。明らかな城の遺構はほとんど残っていないが、それを連想させるものがところどころに見られた。

参考(引用)文献:取手市史、常総戦蹟、日本城郭大系

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龍禅寺・三仏堂

三仏堂常総線・稲戸井駅付近にある龍禅寺の三仏堂は、国指定重要文化財である。見事な茅葺屋根と時代を感じさせる木造建築を見ることができる。三仏堂の由来には、平将門の母がこのお堂の中で将門を出産した伝説や職人・左甚五郎が一夜で造ったという民間伝承が残っている。寺に伝わる公伝によると、924年に僧・伝誉が鎮護国家の道場として開いたのが始まりであり、937年に平将門が仁王門と鐘楼を寄進したそうだ。その後、荒れていたが、1192年に、源頼朝が千葉常胤に命じて修繕し、今日に至るとのこと。

参考(引用)文献:取手市史

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大阪城~山里丸にある秀頼・淀殿自刃の地

大阪城PCを整理していたら、3年前に大阪に行った時に撮った大阪城の写真が出てきた。この頃はお城の知識は結構適当で、天守閣ばかりに目が行ってしまい、土塁や堀跡にはほとんど興味がなかった。
お目当ての大阪城天守閣に入ってはみたものの、内部は完全なアミューズメント化されており、少々がっかりした記憶がある。しかし、天守閣の側にある山里丸にあった「秀頼・淀殿自刃の地」をたまたま見つけたときは、自然と厳粛な気持ちになったものだ。この時以来、天守閣以外の遺構に目が行くようになった。城址探検が好きになったきっかけの地と言ってもいいかもしれない。

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小文間の宗四郎坂古墳

宗四郎古墳「宗四郎坂古墳」は小文間にある有名な古墳である。「宗四郎坂」とは坂の名前であり、古墳がその坂の近くにあるためにこの名前が付いている。古墳の形式は、かろうじて円墳に近いが、すでにかなりの土取りをされているため、原形がわからなくなっている。
なお、この古墳の正体ではあるが、平成13年にこの古墳の調査が入ったときには、古墳時代(6~7世紀)の遺物・痕跡が見られなかったそうである。調査報告書は次のように結論づけている。「小文間には中世関連の施設が多いことから『中世における供養塚』と推定される」

宗四郎坂古墳の場所は、取手市小文間5378-1付近。

参考文献:取手市遺跡発掘調査報告書

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中峠城(芝原城)

中峠城中峠城は古利根沼湖畔にある城である。城主は河村氏。常総戦記によれば、小文間城主一色宮内を滅ぼした雁金山の戦いの功でこの城の城主となったようである。当時の古利根沼は利根川の蛇行部分であったたため、この中峠城は水運ににらみをきかす要害の地であったのだろう。城の南側には田園地帯である湿地帯が広がり、城の守りにも問題はなかったのだろう。
河村氏は、天正元年の小田原北条氏との根戸村合戦にて討死にし、それとともに中峠城は落城したという。
縄張り中峠城の縄張りは、二等辺三角形の形をしており、西からⅠ郭・Ⅱ郭・Ⅲ郭の3つの郭で構成されている。この周辺は宅地化が激しく、残存している遺構は少ないが、Ⅰ郭の先端部にある櫓跡のような高台とその周辺の残存土塁は素晴らしい。Ⅱ郭は自然公園となっており、かろうじて古利根沼側に土塁(城塁)が残る。Ⅲ郭は森林と一部宅地化されていて遺構があるかわからなかった。なお、城址の中央を通る道路の南側に広がる竹林の中には堀跡のような窪みが見られた。

参考文献:日本城郭大系、中峠城調査報告書、中村脩氏著ふるさと「あびこ」

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小堀地区(4)~水神社と常国寺

水神社の鳥居小堀地区にある水神社と常国寺。同じ敷地内に隣接する歴史のある寺社である。水神社は水神を祭神としており、1668年創立の伝承がある。利根川図誌にこの神社の祭が書かれている。それによると、「神輿を高瀬舟に乗せ、舟上には幕を張り、明りをこうこうと点けて笛に太鼓で囃子を鳴らしながら利根川を下る。後ろに続く舟からは花火を上げる。」当時は、この祭を見るためにたくさんの人が集まり壮観な光景であったようだ。また、白木でできた神輿を荒々しく揉む・落とすような「荒れ神輿」の祭もあったようであり、当時の小堀地区には、船大工・船頭などの船関係者の集落(小堀河岸)があったことから荒々しい風土が濃厚にあったことが関係しているのだろう。
常国寺は、1662年の創立と言われており、こちらも古い。開祖は、常円という和尚さんだが、実は、千葉重胤の家来「椎名右京亮」であるということだ。

参考文献:取手市史、利根川図誌

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小堀地区(3)~古利根沼

古利根沼小堀地区にある三日月型の古利根沼。大正9年の利根川河川改修により、切り離された蛇行部分が沼となったものだ。古利根沼はうっそうとした森林に囲まれ、開発が進む取手市内の中で、唯一、濃厚な自然が残る場所である。
目撃したことはないが、タヌキやイタチ、野ウサギが住んでいる。また、沼には、コイ・ヘラブナなどが生息しており、それを目当てにした釣りの人が集まってきます。


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小堀地区(2)~小堀河岸

小堀河岸「河岸(場)」とは、江戸時代に栄えた河川舟運の拠点となる停舟地とその集落のことを言う。河岸場の機能としては、積荷の配舟・運搬の差配を行う。集落には、商人、船問屋、船頭、水主、船大工が主に居住している。江戸時代の取手には3つの河岸場があった。戸頭河岸、取手河岸、小堀河岸である。それぞれの河岸ごとに機能と目的が違っていておもしろい。
戸頭河岸。布施村(現柏市)、戸頭村、常陸、筑波、下妻、真壁、笠間筋の大名行列通行の中継地だった。
取手河岸。商人の活動場所・商業活動が目的の河岸場。取手の渡し(現大利根橋付近。大正6年に廃止)よりやや下流にあった。
小堀河岸。最寄の村々からの年貢米を積み出しては江戸へ廻送していた。艀下場として艀船を差配していた。

参考文献:取手市史

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小堀地区(1)~小堀の渡し

小堀の渡し取手市の南側にある小堀地区は、利根川を隔てた飛び地となっている。昔は取手市と地続きであったのだが、大正9年の利根川河川改修により、利根川の流れが今のものになり、小堀地区は分断された。また、改修前、小堀地区の南側を蛇行していた利根川の一部も一緒に分断され、古利根沼として残っている。
「小堀の渡し」は、小堀地区住民の不便さを補うために作られたものである。今は観光目的での乗船が可能だが、昔は、小堀地区住民だけしか利用できなかった(小堀循環バスができてから観光利用も可能になった)。1回100円(往復200円)で利用ができる。便数は、1日7便。9時から16時の間のみの運航である。小堀・取手サッカー場(河川敷公園)・ふれあい桟橋(利根川大橋)の3点を結んでいる。
なお、余談ではあるが。。。江戸時代から続いてた渡しに「取手の渡し」というものがあった。場所は現大利根橋付近である。昭和5年に大利根橋ができると廃止された。

参考サイト:取手市ホームページ・小堀の渡し※時刻表が掲載されている。



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台宿二本松遺跡~縄文時代の貝塚から平安・戦国時代中世城館までを含む複合遺跡

台宿二本松遺跡取手市井野団地のそばにあるスーパー「マスダ」のそばにある小山。今では、頂上部が掘削されて住宅やマンションが立ち並んでいるが、10年前には遺跡があった。「台宿二本松遺跡」である。取手市遺跡発掘報告書によると、旧石器時代、縄文時代の前・中期の貝塚が発掘された。また、奈良時代から平安時代にかけてと思われる住居跡も発掘されている。特に平安時代の住居は城館と思われる方形の跡地であったそうだ。
さらに、平成8年の遺跡調査では、戦国時代の堀または溝が発掘された。ということは、「土塁や主郭でもあったのか?縄張りは?」と大いに期待してしまうところだが、調査報告はここで終わっている。今は、遺跡の跡形もない。

参考文献:取手市遺跡発掘調査報告(1998年)

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プロフィール

duckhouse

Author:duckhouse
私は取手市に住む地元とアントラーズを愛するものです。歴史にお城も好きだよ。

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