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鮭地蔵

鮭地蔵利根川河川敷堤防の草むらの斜面にお地蔵さんがたっている。場所は、利根川鉄橋から100mぐらい下ったところだ。このお地蔵さんの正体は「鮭地蔵」。なぜ、「鮭」なのか?実は、江戸時代、利根川では鮭漁が行われていた。利根川図誌によると、鮭漁は、毎年7月下旬から10月下旬の間で行われており、小文間あたりで獲れる鮭が極上のものだったらしい。
この鮭地蔵の由来はわからないが、鮭の供養を目的として建てられたのかもしれない。
余談ではあるが、鮭地蔵がある付近には、竹村河岸があった。当時の有力商人である「竹村穀屋」が開設した河岸である。この河岸で鮭の水揚げがされていたのかもしれないね。

参考文献:取手市史、利根川図誌

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志村城

志村城志村城は、赤塚城の支城である。城址説明板によると、1458年に千葉自胤が赤塚城に入場した際に、一族の千葉隠岐守信胤がこの城を前衛拠点としたそうである。志村城は1524年に北条氏綱に攻められて落城した。
遺構についてだが、熊野神社が二の丸と言われており、境内の西側に堀跡が残っている。本丸は志村小学校になっており何も残っていないが、志村城がある高台は標高20mの要害の地となっており、当時言われた「守るに易く攻めるに難し堅城」の雰囲気を感じることができる。城址のふもとには城山公園があり、近くにある清水坂の旧名は「隠岐殿坂」といわれたそうだ。

場所:板橋区志村2丁目。都営地下鉄・志村三丁目から徒歩5分。
参考文献:日本城郭大系

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赤塚城

赤塚城赤塚城は板橋区の西高島平にある城址である。城主は武蔵千葉氏。日本城郭大系によると、下総の千葉氏総領家の相続争いに巻き込まれた嫡総家の千葉実胤・自胤兄弟が上杉氏の助けを受けてこの城に入城したのが始まりである。その後、兄弟は太田道灌軍の有力な武将として活動し、この地を治めていた豊島氏・赤塚氏を討ち、この地を支配したが、1590年に千葉氏は豊臣秀吉に滅ぼされ赤塚城は落城した。

場所:板橋区赤塚五丁目。都営地下鉄・西高島平駅から徒歩10分程度。
参考(引用)文献:日本城郭大系

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生実城(森川陣屋)

20070317_smallRIMG0023.jpg生実(おゆみ)城は、16世紀に原一族により築城されたのが始まりである。原氏は代々、北条、千葉の抗争の狭間で存続してきたが、戦国時代末期の小田原の役で、北条方に着いた時の城主の原胤栄氏が徳川勢の酒井家次に討たれ落城した。その後、寛永4年(1627年)、森川重俊がこの地を与えられ、生実神社の側に陣屋(森川陣屋)を置き、明治まで支配した。
遺構については、森川陣屋があった生実神社の南に堀跡と土塁が残り、境内には櫓台のような土盛が見られる。生実城址の遺構は、本城公園と呼ばれている主郭跡のみだ。

参考サイト:埋もれた古城

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取手市埋蔵文化財センターで、「第21回企画展「2006 発掘と発見 茨城県内遺跡の発掘速報展」開催中!

20070315_RIMG0013.jpg取手市吉田にある「埋蔵文化財センター」にて、第21回企画展「2006 発掘と発見 茨城県内遺跡の発掘速報展」が開催されています。茨城県内の2006年に行われた発掘調査内容が紹介され、取手市からは「神明遺跡」が紹介されるようですね。3月17日には、専門家の方による講義があるようですが、私はヤボ用があって、行くことはできません。残念。。。
埋蔵文化財センター

※告知ポスター
RIMG0012.jpg

取手の一里塚

一里塚茨城県遺跡地図によると、JRの陸橋を渡ったところにある自転車駐輪場の辺り(取手市新町2丁目)には、江戸時代、「一里塚」があったそうだ。治助坂の登ったところがそうである。残念ながら、一里塚を示す碑はないが、近くを水戸街道(国道6号)が通っており、雰囲気を感じることができそうだ。

参考文献:茨城県遺跡地図

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取手の坂道(4)~さくら坂、雁耕坂、治助坂

取手の坂JR取手駅前付近にある3つの坂道に名前がついている。
東口からカタクラショッピングビルの前を通って台宿へ登る坂は、「さくら坂」と最近名づけられた。由来は、近くに千葉県佐倉市へ通じる佐倉街道があることによるそうだ。同じ東口から居酒屋の脇を通って取手一高へ登る坂は、「雁耕(がんこう)坂」。これは、当時、この辺が雁耕地と呼ばれていたことによる。雁耕地とは、谷津田だった頃、「雁が稲穂を摘んでいる姿が、田んぼで耕しているように見えた」 といういわれによるものである。また、西口から、井野台へ登る坂は、明治時代から「治助坂」と呼ばれているそうだ。由来は不明らしいが、小文間の坂同様に、坂の中腹に、治助氏の屋敷があったことに関係するのだろう。

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取手の坂道(3)・小文間編~勘右エ門坂、直右エ門坂、四郎右エ門坂

勘右エ門坂小文間・中妻から渋沼に通ずる坂は「勘右エ門坂」と言われていた。坂の中腹に「林勘右エ門」の屋敷があったことに由来する。この林氏は、小文間を治めていた一色宮内の家臣であったそうだ。
この他にも、人の名前がついた坂がいくつかある。小文間城址へ通ずる坂は、「直右エ門坂」と言われていた。坂の中腹に、海老原直右エ門の屋敷があったことに由来する。また、小文間小学校から利根川に通ずる坂は、「四郎右エ門坂」と言われていた。坂の終わりに、倉持四郎右エ門の屋敷があったそうだ。海老原氏、倉持氏が一色宮内とゆかりがあるかはわからない。

参考文献:取手町郷土史資料集Ⅱ

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奥沢城

奥沢城九品仏にある浄真寺の境内は、奥沢城があったところである。日本城郭大系によると、小田原北条家の属将・吉良家の老臣大平左馬(或いは出羽守)が城主であったらしい。近くにある吉良家が城主である「世田谷城」の出城なのだろう。
さて、今の奥沢城の遺構であるが、見事な土塁が残っている。日本城郭大系に掲載されている縄張り図では、ちょうど正方形の単郭であるようである。郭の周りを土塁が取り囲んでいる。この土塁が今でも残っているのには驚きである。
今の奥沢城の周りは完全に宅地化されているが、当時は深田と沼に囲まれていたらしい。

参考文献:日本城郭大系

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duckhouse

Author:duckhouse
私は取手市に住む地元とアントラーズを愛するものです。歴史にお城も好きだよ。

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