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大鹿城

大鹿城大鹿城は現在は消滅してしまっている。取手競輪場のある台地・南側の尖端にあったらしい。取手市史によると、昭和45年頃まで単郭の城跡があったようだ。大鹿城の縄張り図と写真が、大鹿城跡発掘調査報告書の残されている。当時の大鹿城は、100mx40mの単郭のものであり、本丸は二段になっており、中段には土塁と空掘があり、頂上本丸の周囲は土塁で囲まれていたそうだ。
また、倉重一彦氏の「北相馬郡古城址図集」によると、競輪場コース・西側の広場が二の丸・馬場があり、駐車場付近に北の口・追手門と妙見社があったようだ。北の口付近に、残存土塁がある記述もある。昭和47年の作図なので、今も、残っているかわからない。
大鹿城の城主・大鹿左衛門は小文間の一色宮内に滅ぼされた。取手市内には、大鹿とついた地名がいくつか見られる。

大鹿城址は、取手競輪場付近。遺構は残っていない。八重洲ニュータウン造成前、取手競輪場拡張前は、競輪場南前に堀跡がまだ残っていたそうだ。

参考文献:取手市史、利根川図誌、大鹿城跡発掘調査報告書(1996年)

大鹿左衛門滅亡の状況は、利根川図誌に詳しい。少し引用してみると、「小文間一色宮内は、小田の味方にて有りしが、この頃佐竹に降りて近郷を脅かし、手を広くせむと思ひしが、かねて中悪(あし)かりければ、先大鹿に攻め懸かりて大鹿左衛門を亡ぼし、かの世帯を押領せむとて、二百余騎にて不意に大鹿へ押し寄せたり。時しも大鹿左衛門は、所労にて居たりける所に、鬨(とき)をあげしかば、家ノ子須川平治を呼び、何者かよせつらむ、思ふに小文間の一色めならぬ。憎き奴かな。さりながら我此程にては中々矢の一筋も射出し難し。足元を片付けて、我は腹切るべし。汝宜しく片付くべしと被申しかば、須川表に走出て家人を集むるに、雑人共に五十人ばかりなりしかば、先奥方を始め女童を皆呼び集め、後ろの山伝ひしてからき命を逃れ、同所の弘経寺へ隠しけり。是大鹿が菩提なり。かくて、足元を片付けしかば、今は心安しと、須川を始め出て散々に戦うふ。その隙に大鹿左衛門心静かに切腹す。」

倉重一彦氏の「北相馬郡古城址図集」とGoogle Earthの衛星写真を重ねてみたのが下の写真。
Google Earth

遺構は完全に消滅してしまっている。なお、1996年に競輪場正面新築工事にともなって行われた発掘調査では、陶器・土器破片や堀跡・建物跡・井戸状遺構が発見されたそうであり(大鹿城跡発掘調査報告書)、遺構は表面的には消滅しているが、地下にはまだまだ眠っている可能性がありそうだ。

競輪場南側

このあたりに大鹿城本丸があったらしいが、今は影も形もない。

崖

大鹿城があった台地の崖が競輪場周囲をとりまいており、往時をしのぶことができる。大鹿城跡発掘調査報告書には、往時の大鹿城の本丸・土塁・空堀・虎口の写真がたくさん掲載されている。
取手のシンボルにもなりえた城なのに、実にもったいない。(^_^;

また、大鹿城の南に広がる田園の中に、「鹿(しし)塚」というものがあったそうだが、今はどこにもない。

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tag : 中世城館

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大鹿城

旧大鹿村北口鎮守「北口妙見宮」(相馬氏の氏神)は、取手市白山2丁目の根本氏宅敷地内にある。
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Author:duckhouse
私は取手市に住む地元とアントラーズを愛するものです。歴史にお城も好きだよ。

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